自体が苦しいために、たいていの人がその苦境から
抜け出そうとして悪戦苦闘することになるのですが、
そうすればするほど苦しみを深めることになつて、
そういうやり方では苦境から脱出することはできないのであります。
逆にとらわれの中に入り込んで、とらわれになりきり、
とらわれを間麓にしない人間になることによって解決されていくのであります。
怒りが高じて相手を殴ったりすると、そのときはスカッとした気分になります。
2009年11月22日日曜日
理論と実践は車の両輪のようなもの
理論と実践は車の両輪のようなもので、どちらが欠けても良くないものです。神経症になっている人は現実から逃げているところがあるために、実践不足になるケースが多いと思います。
「理屈の上では理解できるけれども実行ができない」という時期が、
症状をのりこえていく過程で必ずやってくるものです。
その場合は、理論過剰になっているわけで犯すから、ひとまず理論から離れて、
事実本位の生活をしてみることをお勧めしたいと思います。
「必要に応じて必要なことをする」という生活です。
「理屈の上では理解できるけれども実行ができない」という時期が、
症状をのりこえていく過程で必ずやってくるものです。
その場合は、理論過剰になっているわけで犯すから、ひとまず理論から離れて、
事実本位の生活をしてみることをお勧めしたいと思います。
「必要に応じて必要なことをする」という生活です。
2009年11月18日水曜日
2009年11月14日土曜日
2009年11月10日火曜日
今の幸せは決して得られない
「神経症」や「うつ病」にならなかったら、おそらく今の幸せは決して得られなかったであろうことが確信をもって言えるのであります。
過去の苦しみや悲しみを埋めて、なお余りあるものであると思つているからであります。
それを敢えてくれたのがほかならぬ「森田療法」であったわけです。
「どうして神経症になったのか」について詳しく説明する時間はありませんが、神経症というものを簡単に要約しますと(何回も亭っように)「異常ではないものを異常と思い込み、それをなくしようとして悪戦苦闘している状態」だということができます。
現実の自分を否定して、理想的な自分を観念的に創りだそうとして、はからい続けたのであります。
過去の苦しみや悲しみを埋めて、なお余りあるものであると思つているからであります。
それを敢えてくれたのがほかならぬ「森田療法」であったわけです。
「どうして神経症になったのか」について詳しく説明する時間はありませんが、神経症というものを簡単に要約しますと(何回も亭っように)「異常ではないものを異常と思い込み、それをなくしようとして悪戦苦闘している状態」だということができます。
現実の自分を否定して、理想的な自分を観念的に創りだそうとして、はからい続けたのであります。
2009年11月7日土曜日
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